1972年の阪神タイガース(1972ねんのはんしんタイガース)では、1972年の阪神タイガースの動向をまとめる。
この年の阪神タイガースは、村山実選手兼任監督の3年目のシーズンである。
概要
前年は投打の主力が体調不良に陥り、打撃陣全体が貧打に苦しみ5位に終わったが、チームは巻き返しを図るべく監督経験者の金田正泰をヘッドコーチとして招聘。村山監督・金田ヘッドの二頭体制で開幕を迎えるが、開幕8試合でわずか2勝しかできず村山監督が指揮権を金田ヘッドに委ねる。結局4月は5位に終わったが、その後チームは勝ち出し、5月と7月に2度巨人と同率首位になるなど、8年ぶり優勝の声が聞こえ始めた(阪神は1964年を最後に優勝から遠ざかっていた)。しかし、打線の貧打などもあって8月以降は失速。投手陣では江夏豊、上田次朗の左右二枚看板がエースとして活躍し、ローテーション入りした谷村智啓も11勝をあげたが、ルーキーの山本和行は勝ち星が伸びず、江夏に代わって開幕投手も務めた古沢憲司はわずか1勝にとどまった。打撃陣ではこの年入団の中村勝広や望月充など新戦力が台頭し、急性腎炎から復帰の田淵幸一や前年28本塁打の藤田平が打線の中心になったものの、田淵、藤田平以外の打者は低打率にあえいだ。シーズン終了後、村山実は現役を引退し監督も退任。後任は金田監督代行がそのまま就任した。
チーム成績
レギュラーシーズン
オールスターゲーム1972
入団・退団
シーズン開幕前
本節では、前シーズン終了から本シーズン開幕までの入退団について記述する。
選手・スタッフ
試合結果
※日付の後の(a)はダブルヘッダー第1試合(b)はダブルヘッダー第2試合
※セーブ制度は1974年から
個人成績
投手成績
※色付きは規定投球回数(130イニング)以上の選手
- 太字はリーグ最高。
- 完封合計は継投も含む
打撃成績
- 色付きは規定打席(403打席)以上の選手
- 太字 はリーグ最高
表彰
- 田淵幸一
- ベストナイン 〈捕〉(初受賞)
達成記録・出来事
- 4月12日 - 江夏豊が巨人1回戦(甲子園)で二回に堀内恒夫から三振を奪い通算1500奪三振、史上18人目
- 4月21日 - 村山実選手兼任監督のが指揮権をヘッドコーチの金田正泰に委譲
- 5月9日 - 上田次朗が大洋2回戦(甲子園)で先発の若生智男が打者2人で負傷降板をし無死一、三塁の場面で急遽登板し後続を抑え、そのまま9回まで無失点で抑え、完投はしてないが完封の記録がつくNPB史上初のケースが生まれる
- 5月18日 - 村山実が広島7回戦(甲子園) で先発し6回3死目のアウトを取って通算3000投球回、史上13人目
- 6月1日 - 大洋10回戦(川崎)に勝って10連勝。二桁連勝は1963年の9月29日中日23回戦(中日)から10月10日の中日27回戦(中日)で11連勝して以来9年ぶり球団史上6度目
- 6月21日 - 江夏豊が広島12回戦(甲子園)で先発登板し完投勝利をあげて通算100勝、史上58人目
- 6月24日 - 村山実が大洋12回戦(川崎)で先発登板し通算500試合登板、史上27人目
- 6月25日 - ウィリー・カークランドが大洋13回戦(川崎)で7回に平岡一郎から本塁打を放ち通算100本塁打、史上66人目で外国人選手としては7人目
- 9月19日 - 巨人22回戦(甲子園)の試合中の午後8時20分頃、球場に男の声で「球場に爆弾を仕掛けた。午後8時40分に爆破する」という脅迫電話がかかり、午後8時40分、球場を捜索するため試合が中断。甲子園署、兵庫県警機動隊員が爆発物を捜索するが、見つからなかったためいたずら電話と判断し、午後8時50分に試合再開
- 9月27日 - 遠井吾郎が中日24回戦(中日)に先発出場し通算1500試合、史上92人目
- 10月3日 - 藤田平が中日25回戦(甲子園)で4回に土屋紘から本塁打を打ち通算100本塁打、史上72人目
- 10月25日 - 村山実選手兼任監督が監督を辞任、後任には金田正泰ヘッドコーチ
- 11月2日 - 村山実が現役引退を発表
ドラフト指名選手
脚注
注釈
出典




